私のカウンセリングの基本的態度は、クライアント自身の歩みの道のりにそっと付き添って行く、といったものです。
ああしろ、こうしろ、と私が色々指示するのではなく、あくまでクライアント中心で、クライアント自身が、色々逡巡しながらも、自らの道を、自らで決断し、選んで、歩んで行かれるのを、その傍らにて一緒に歩んで、そっと見守るといった感じです。
クライアントが色々迷いながらcircumambulate(グルグルめぐり歩く)するのに、私はwalk along with him/her
together していく、(そして時に手鏡mirrorになる)といったイメージでしょうか。 |
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以下、2つの具体例を提示したいと思います。
(プライバシー保護のため、多少の脚色があります。) |
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家庭内で父母の口喧嘩が四六時中絶えず、大声で威圧的な父の怒鳴り声が、本人の耳の奥にこびりついて、家の中での本人のboundaryが保てず、(つまり、父の怒鳴り声に侵入、侵害され)、やがて外から自分を非難する声がすると幻聴を持つようになり、外出や学校へ行くことが怖いと怯え、不登校になった統合失調症のケースです。
本人の父、母に対する基本的信頼感を回復し、本人の安心感を確立するため、(つまり、家での父の怒鳴り声が侵入、侵害しないようboundary=ego
strengthを再確立するため)、治療方針として、まず私との間で信頼関係を築き、それをモデルに、礎にpivotにしていけるよう、セッションでは相互絵画スクウィグル(MSSM)を行いました。
彼女は、怯えでハッキリしゃべれず、小声でささやく様にしか声を出せなかったため、(言語的コミュニケーションが困難なため)、非言語的なコミュニケーション方法であるスクウィグルで、相互に絵を書き連ねていくことによって、“共同作品”を共に作り上げていくという共同作業を積み重ねていきました。
私の留学により、セッションは中断しましたが、私との共同作業を繰り返すにつれ、私との間に築き上げた信頼関係を基に(私との関係をモデルにして)、父(や母)との関係も少しずつ改善し、外出することや学校へ行くことの恐怖、守られていない感じ(さらされる感じ)も少しずつ改善していきました。 |
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中年の危機Midlife Crisis を迎えた夫が、今までの生き方に関心を失い、新しい生き方をしたいと言い出します。
今まで夫に依存してきた彼女も、妻として、母として、また一人の女性として、どのようにして今後を生きていったらいいかを、同時に問われます。 “Who
are you? 自分は一体何者なのか?”
今まで日常生活のやりくりに忙殺され、そんなことなど考えたこともなかったのに、突然、この問いが突きつけられます。
戸惑う彼女。職業人としてのキャリアを捨て、家事や育児に忙殺され、それをやりくりしてきた生活自体が自分の“作品”(夫との共同作品)だと言えるのに、それさえも否定しかねない夫の突き放した態度。
自分はこれから一体、何を頼りにして生きていったらいいのか?
過去の職業キャリアを何十年たってまた取り戻せるのか?
自分はもう若くはない。確実に年だけはとった。
自分自身も、中年の危機Midlife Crisis なのだろうか? |
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このケースに対して、私はユング自身の、Midlife Crisis(1913年頃から)の克服のプロセスの陳述を念頭に置きました。
セッションのなかで、彼女とこのエッセンスをshareすることにより、彼女の自分の置かれている状況(布置)への理解が深まったようです。 |
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以下長くなりますが、ユングの言葉(1955-6年)を引用します。 |
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“もちろん先取りされた精神病と本物の精神病とのあいだには非常な違いがある。しかしこの相違は最初は必ずしもはっきり知覚されることも認識されることもなく、それが原因で不安な動揺をきたしたり発作的パニックに襲われたりすることになりかねない。
本物の精神病の場合には、人はそこに陥り、そこで制御不能な空想の波に、つまり無意識からの侵入物の波に呑み込まれるのであるが、これとは異なって判断的態度は、個人的な、そして特に集合的な意識状態を補償するところの、空想的事象のなかに自ら進んで巻き込まれるのである。
この場合の空想への参入は、無意識のメッセージをその補償的内容のゆえに意識に統合し、それだけが人生を生きるに値するものにするところの、そして少なからぬ人々にとってはそもそも生きることを可能にするところの、あの全体性をおびた意義を生み出すという明白な目的のもとに行われる。
空想への参入がほかならぬ精神病の外観をとるのは、患者が精神病者がその犠牲になるのと同じ空想材料を統合することに起因するが、精神病者はそれを統合できず、それに呑み込まれるからその犠牲となるのである。
神話では龍を退治する者が英雄であり、龍に食べられる者が英雄などということはありえない。しかし両者がともに同じ龍にかかわっていることには変わりがない。他方ではまた、龍に一度も出会わない者も英雄ではない。あるいは、その姿を見たけれども、その後で自分は何も見なかったと主張するなら、英雄とはいえない。
同様に、龍と果敢に対決し、それにもかかわらず破滅しない者のみが宝を、すなわち[手に入れることの困難な宝]を発見し、獲得するのである。こういう人こそ真に、自己を信じている、自信をもっているといいうる人である。 なぜなら彼はみずからの自己Self の暗い底へ降りてゆき、それによって自己Self を獲得したのであるから。
この経験が彼の自己の負荷能力に対する信念と信頼、すなわち「信仰」を与える。
というのも、内側から彼を脅かしてきた一切のものを彼は“わがもの”とし、それによって、将来いつかまた彼を脅かしてくるかもしれない一切のものを、同じ手段でもって克服できると信じるある種の権利を獲得したからである。
こうして彼は、彼に自立の力を与える一種の“内的な確信”を手に入れ、錬金術師が[精神的合一]と呼ぶものをも達成したのである。“ |
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1912-3年頃、師であるフロイトと決別したユングが、その後、精神病かとみまがう深刻な精神的危機に陥り、能動的想像法などを用いて、徐々に回復していったことは有名ですが、彼のこのMidlife
Crisis の克服のエッセンスが、教訓としてこの文章の中に含まれているようです。
誰もが“内なる龍”を自身の中に、大なり小なり持っているのであり、(影Shadow あるいは、アニムス・アニマとして?)、我が“内なる龍”との折り合い、あるいは対決、あるいは統合は、私たち自身の問題、課題でもあると思われます。
この自覚を共有できたとき、各自の問題の“相対性”(自分だけじゃない)と“普遍性”(皆もそうだ)に気付き、前向きに取り組んで行く姿勢(勇気)が生まれてくるのだと思われます。
私がこのエッセンスを自分なりに噛み砕いて、セッションの中で繰り返し伝えていった結果、彼女はMidlife Crisis を超えて、自身の“個性化”individuation
process を進めていくことになりました。 |
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日本での8年間の精神科臨床(自己紹介をご参照下さい)で、上記(2)に列挙した領域等での経験があるため、クライアントの訴えの背景にある、症状等の病理的な鑑別の把握が容易であり、必要なケースには、連携している医療機関(機関外)へのrefer,offer が手堅く可能である、というメリットがあります。 |
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日本では薬物療法と併行して、精神療法(心理療法)を行っていたケースが多かったのですが、スイスでは psychotherapist
として、心理療法中心(単独)のカウンセリングになりますので、こうした現実的な枠組み構造がしっかりした上での前提が大事になってきます。
こうした点でのご理解を宜しくお願いします。
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